人は言葉が通じるか、通じないかによって、どのような付き合い方をするかの判断をするものですから、意思の疎通をはかるという意味において、言語というのは重要です。コンピュータ言語というのは、時代によって意味が変わるということはないので、とても単純なのですが、実際に人が使用する言語というのは時代によって意味が変わるし、場合によっては表記が変わってしまうこともあるため、非常に複雑なものになります。たとえば、「適当に」というとなんとなく「主要部分で問題がなければ些細なことはいい、いいかげん」というような感じで思っていたのですが、本来の意味は「適した状態にぴったりと当てはまるように、ふさわしいように」であったことを知って驚いたことがあります。「全然」の使い方も時代によって変わってきている感じがあります。「すみません」については、「すいません」と言う人の方が増えてきて、昔の辞書には載っていなかったのに、最近の辞書には掲載されているようです。この他には「貴様」は昔は敬語であったとかがあります。古語に詳しい人は他にもたくさんの例を思いつくでしょう。
こうして考えてみると、言語にもジェネレーションギャップがあることがわかります。改めて言わなくても、当然といえば当然なのですが、あまりに当然のこと過ぎて普段は意識しないことが多いのではないでしょうか。さて、このことに注目をすると、世代が異なる人たちと話をするときには注意が必要だということに気がつきます。各世代で言葉が微妙に異なるので、意思疎通がうまくいかないことが多いのです。単純にいうと各世代の常識が通じないということになります。学校の先生をしていたことがありますが、こちらが常識だと思っていることを基準としてみると、非常識なことをする学生はたくさんいます。そんなときは、問答無用な感じで頭ごなしに「なぜそんなことをするのか? こうしなさい」というような感じで指導をすることが多かったと思います。この場面で理由を聞くのですが、常識を判断基準として「いけない」といってしまっているので、「何がいけない理由なのか」ということをきちんと説明しないままだと、相手はそれを理解していないのでとんちんかんな回答をしてきます。すると「とんちんかんな回答をするな」という話になってはじめて、「こういうことをしないのは常識なんだ」というようなことを伝えることになるのです。言われた方は、「頭ごなしに言われた」ショックに加えて、「常識がない」と言われたショックを受けてしまいます。すると、かなり落ち込んで学校を辞めてしまうか、そのショックを和らげるために逆切れをして感情的に逆襲をしてきます。そのとき初めて、まずい対応をしたのだということに気がつくのですが後の祭りで、お互いに心に傷を負った状態でものわかれになったという経験があります。こういったことが何度もあってはいけないので、気をつけるようにしてはいたのですが、わかりきっているだろうことをくどくどと説明するのは時間の無駄だという感じがしてしまって、どうしても説明不足になることが多かったような気がします。くどくど説明をしていると、「そんなことわかっている」という態度をとる学生が多かったことに対して、うまく対処ができなかったのも良くありませんでした。先生を辞めた今となって初めて気がついているのですが、昔のような師弟関係においてはこういったことを考える必要はないでしょうが、先生というのが職業となってしまっている現代においては、先生となる人には、こういった状況でも上手に忍耐強く説明ができる能力が必要ではないかと思います。
言語というタイトルから話がずれてきていますが、このまま続けます。個人的には常識という言葉で単純にものごとを片付けてしまうのは嫌いなので、できるだけ使わないようにしています。研究などをする人の基本的な考え方として「常識を疑え」というのがあるからです。しかし、「常識は必要がない」というわけではありません。冒頭に書いたように現実では意思疎通ができることは大切であり、その基盤として「常識」というのを前提として会話はされますから、これをまったく無視をすることはできないからです。普段の生活の中では「常識を持つ」、研究などをするときは「常識を疑う」、といった切り分けができる能力が必要なのだと思います。ここで「教育の場面ではどちらの態度が良いのか」ということが疑問となります。この場合は、「相手は常識がない」ということを前提として「常識」を伝えるようにしないと、前述のようにものわかれとなってしまいます。そこで、「常識を疑う」気持ちを持ちつつ相手に接して「お互いが共有できる常識」を構築するということにするのが良いのではないでしょうか。最初のボタンをかけちがうと話が噛み合わないままになってしまうので、これをうまくできるようになるには、それ相当の経験が必要になります。自分は前述のように無意識のうちに常識を判断基準としてしまうことが多く、あまり上手な態度をとることができなかったと反省してしまいます。過ぎ去ってしまったことなので、どうしようもないのですが。
このようなことは、学校に限った話ではなく社会でも同じようなことはたくさんあります。普段の生活では「自分の常識」を基準として色々なことをするようになりますが、強い権限を持つようになればなるほど無意識のうちに自分よりも弱い立場の人に対して「自分の常識」を押し付けてしまうようになってしまいます。常識というのは時代とともに移り変わっていくもの、「自分の常識」と「相手の常識」は違う、といったことを常に意識しながら、社会へ貢献できることをやっていけるようになりたいものです。