Ref: 人間もっと素直に、かつ謙虚でなくては
伝説に残る人を今までも何人か見てきましたが凄いですね。捨て台詞がまた凄い。いままで、こんな捨て台詞を想像することもできませんでした。
これで、私のテストは、終了です。
私も今後は、このかすどもに見下されないようにがんばろうかしら。(^_^.)
(こんなかすども、どうでもいいけど)
こういう発言がログに残って、かなりの人に参照されるというのは情報化社会の悪いところかもしれません。昔なら、ちょっとすれば忘れ去られますが、現在はなかなかそうはいきません。実際、M女史と呼ばれている人のこの発言はすでに3年以上も前のものですが、こうやって引用することができてしまいます。
ご自分こそ、これまでMLの場を借りてなんと馬鹿げた個人中傷をやってきたか、ちょっと冷静になって過去ログを振り返ってみられてはいかがですか?(笑)
どうも個人的に私に何かあるとしか思えない内容ですね。でも残念だけど、私はあなたなんか問題にもしてませんけど。
ところで、このML、もうこれ以上レベルの高い収穫はなさそうだからこのへんで退会しますね。どうも大きな御世話になりました。
最近の学生は標準が「教えて君」なので、社会に出る前に「自分で調べる力」を身につけて、可能なら「自分で考える力」を身につけてもらいたいと思って接しているのですが、そういう力を身につけないで社会にでてしまった人が周りからたたかれると、上記のような発言をする人になってしまうのかもしれません。
こういった力を身につけさせるためには、結局いろいろな課題をだして解決させてみるということをするのですが、その方法がまた難しい。個人差があるので同じことをやっても評価が分かれてしまうのです。こちらが主導して学生からはあまり回答がない授業をしたことがあり、自分としてはみんなあまり考えないのか内容が難しかったのかなどと思っていたにもかかわらず、「今日はみんなでXXについて考えました。とても勉強になりました」みたいなことを感想として書かれたことがありました。やはりズレが生じるのです。
また、「自分でコンピュータを使ってやりたいことを考えて、実際にやってみて、最後に発表をする」というのをゼミの学生4名にやらせたが、ひとりが「Webページを作ってみたいが、HTMLでどんなことができるかわからなければ、やれることがわからないから、計画をたてることができない」と言ってきた。これは「Webページを作ること」を目的としているのが、「目的と手段のはきちがい」だという感じで、これを「何か情報発信をしたいことがあって、その手段としてWebページを作る」というスタンスで考えてもらいたいということを伝えるのが難しかった。いまどきの学生は、できることは何かという制約を把握した上で作業をするということに慣れてしまっている感じがする。作り上げたいものの理想的なイメージをまず持ってから、実現方法を調べていって、可能なことと実現困難なことと不可能なこととを切り分けるというアプローチができないようなのです。普段から、こういうことができるようになりたい、とか、こういうものを作ってみたい、という事を考えたことがないのかもしれません。そうなってしまった理由のひとつとしては、学校で勉強することになれてしまって黙っていても新しい知識を与えられる環境というのがあるのかもしれません。受験戦争に巻き込まれた身としては、なんとなくわかるのですが、
作り上げたいものの理想的なイメージをまず持つことからスタートするというアプローチはどこかで経験しないといけないことだと思うわけです。
「調べる能力」とか「考える力」というのはどこかで身につけないといけないし、それは若いうちに意識しないと発達させることができないので最初は苦しいのかもしれないが、どこかで苦しまなければならないのだから、どこかでやるしかないのだと思う。自分自身、論理的思考がまだまだできていないし、文章を論理立てて書くこともまだまだできないので、訓練が必要だと思っている。これは一生続くことだと思うが、やはり必要なことだと思う。
こういう話をすると、shiraさんとかには「きびしすぎ」と言われたり、YTPさんには「つきはなしすぎ」と言われてしまう。たぶん、アプローチの仕方に問題があって、その点に対して批判されるのだろうが、目的とするところはやはり「調べる力・考える力をみにつけること」を変えてはいけないと思う。
などということを考えてしまいました。